関連プログラムコンサート 「エレクトロニックラーガのための室内楽」
8月28日 (日)14:00 ? 15:30
岐阜県美術館[講堂]
出演: 福島諭 福島麗秋 濱地潤一 飛谷謙介(Mimiz)
ゲスト: 石川喜一 (ピアノ調律師?美術家)
《エレクトロニック ラーガの為の室内楽》(2022)
Ⅰ. 尺八とコンピュータのための[福島麗秋+福島諭]
Ⅱ. サクソフォンと電子音のための [濱地潤一+福島諭]
Ⅲ. IとII、そしてエレクトロニック ラーガのための [Mimiz]
《エレクトロニック ラーガの為の室内楽》(2022)は、2022年7月5日から9月11日の期間に岐阜県美術館において開催された展覧会、IAMAS ARTISTFILE #08 福島諭「記譜、そして、呼吸する時間」の関連プログラム内で8月28日(日)に初演された。
タイトルにある《エレクトロニック ラーガ》(1979年、岐阜県美術館所蔵)は、作曲家であり電子オブジェの制作でも知られる佐藤慶次郎(1927-2009)が制作した音の出るオブジェの事を指す。佐藤はこれを「楽器」ではなく「音具(おんぐ)」と呼んだ。私は《エレクトロニック ラーガ》のための作曲を行うために、2022年4月に岐阜県美術館において2回の現地調査を行った。その中で、この音具の目立った特徴は以下のように考えられた。
?2つの半球部分を両手で触ることにより音が発音される構造を持つ。
?半球に触れる面積が大きければ発せられる音のピッチは高くなり、小さければ低くなる。その際のピッチの上昇?下降はグリッサンドではなく固有の音階で上下する。(接触面積が非常に少ない状態だと音階の有無はぼやけ、グリッサンド的に発音される。)
?演奏時に音量の調整はできない。
?音を飛ばして発することはできず、到達する音に向かっては常に音を発しながら音階を上り下りすることになる。
?ひとりだけではなく、複数の人を繋ぎ音を発することができる。
上記の主な特徴から、《エレクトロニック ラーガ》を楽器として使用することを考えた場合、演奏時に奏者が行える事はかなり限定される事が分かる。つまりこの音具は、楽器的な演奏法への洗練を目指されたものというよりは、音を出す当人の身体(の動き)を強く意識化させたり、複数人での共通体験を誘発するような体験的な機能に重点が置かれたもののように推察された。それでも、これを用いて演奏を考えた場合、私にとっての最初の興味は《エレクトロニック ラーガ》の音を"いかに静止させるか"であった。身体は、止めようと思っても微細に揺れ動くということが、この音具によって逆に強く意識化されたためである。また、《エレクトロニック ラーガ》におけるラーガというキーワードが指し示すとおり、ここには固有の音階が存在し、触れる人により独自の旋律線を描くことが可能であることはやはり重要であった。2回目の調査においては、私以外にも鈴木悦久(Mimiz)や三輪眞弘による「数分間の試演」を間近で立ち会う事ができた。演奏の内容は明らかに私のものとは異なっており、それぞれ特有の旋律に向かっていくように思えた。発音時に身体の接地面積の変化を音で聴きながら、各人がその中から好ましい音域を選び取り、またそれをどのように上下変化させるかという判断を行っているということなのであろう。ピッチとリズムとをどのように組み合わせるかという比較的シンプルなことから生み出される、旋律のバリエーションであった。
こうした調査を経て、《エレクトロニック ラーガ》は独自の"固定された音階"を持ちながら、体験者の身体と耳を通じて自分自身と対話することを許すものであることが実感できた。ここにはまず《エレクトロニック ラーガ》がそれとして存在するための動かし得ない「構造」があり、その中で体験者の「即興」を許すという佇まいがある。私はこの「構造」と「即興」の関係を、《エレクトロニック ラーガの為の室内楽》の作曲を通じて今一度見つめ直したいと考えるようになった。
《エレクトロニック ラーガの為の室内楽》は大きく3部に分かれる。3部はそれぞれ「 I 」「 II 」「 III 」とし、奏者も曲想も、その役割も変わるものとする。「 I 」と「 II 」はそれぞれは互いに強く関連付いた楽章というよりは、まず互いが独立して存在するべきものとした。そして「 III 」では《エレクトロニック ラーガ》が実際に演奏されると共に、同時に「 I 」、「 II 」の録音も楽曲中に用いられることが意図されている。この前提が本作における大きな「構造」である。その上で音楽的な配慮が成されたところとしては、「 I 」は《エレクトロニック ラーガ》の音階に親和的な響きを形作ることが目指され作曲されている点である。しかし一方で、「 II 」では《エレクトロニック ラーガ》の音階に対する配慮は行わないものとした。こうした対比は、音楽における“個”について問いから導いたものでもある。音はいつ音楽になり、ひとつの個になるのか。個々の音楽は互いに交わることはないのか。2つ以上の音楽が同時に存在するとき、その境目では何が起こるのか、というような一連の問いである。これは、今回の展示「記譜、そして、呼吸する時間」において、2つの設置音楽作品が同時に鳴らされる時間を体験することにより、私自身がより強く意識した素朴な疑問でもあった。
《エレクトロニック ラーガの為の室内楽》において上述の楽曲構造の他に、もうひとつの重要な要素があるとすればそれは「音楽を通じた他者」の存在である。「 I 」で尺八を演奏する福島麗秋は、尺八奏者であると同時に私の父という存在でもある。音楽的な間合いの取り方において、自分と似たものを感じることもある。近年の麗秋との取り組みは、前半は記譜された旋律の演奏、後半は即興を行う2部構成が定型となっているが、今回の「 I 」もそれに準じている。「 II 」でサクソフォンを演奏する濱地潤一は、2008年に知り合い2009年から《変容の対象》を続けてきた同志でもある。気がつけば実際の即興演奏よりも《変容の対象》における即興的な作曲を続ける時間のほうが遥かに長くなった。最近では、実際の即興演奏の際に《変容の対象》での印象的なアプローチがフィードバックするような不思議な体験もする。今回のような電子音とサクソフォンという編成は我々にとって初めての試みであったが、電子音を背景に濱地は極めて自由な即興を行っている。「 III 」で演奏するMimizは2002年の暮れから独自の編成で活動を共にしてきた鈴木悦久、飛谷謙介、福島諭(筆者)の3名によるグループである。今回、メンバーの鈴木悦久は出演予定だったものの急遽欠席と成らざるを得なかった。鈴木は本公演に向け22平均律による響きの模索を行っていた。その響きは自動プログラム化され、当日は「 III 」の中間部から、飛谷によってミックス操作され鳴らされることになった。Mimizはこれまでレイヤード?セッションと呼ぶ独自の即興形態によって演奏を続けてきた。この即興では、3人がそれぞれ役割を分担し、3人で1つの音響を生み出すように演奏される。レイヤード?セッションは一人では完結しない構造上の特徴を持つ。互いに依存関係があるために、難しい判断が要求されるが、演奏中はとにかく音を聴くことが重要となる。今回も「 III 」の中で、どの瞬間が機能し、どの瞬間が上手くいっていないかを私と飛谷が聴き続け判断を行った。ここでの演奏者達がいずれも、私にとっては単なる「他者」ではないことは事実であり、その存在を持ってしてようやく、佐藤慶次郎の《エレクトロニック ラーガ》に対峙することができるのではないかとも考えていた。それはこの音具が潜在的に持つ、人と人とを繋ぐ融和的な存在という観点にも少なからず響くはず、とも思われたからである。
しかし、本作を作曲作品として考えた場合には、まだ自身の関係性や演奏時の即興性に頼る部分があまりにも多いように感じている。今回の発表を経て、私は次作《エレクトロニック ラーガの為の室内楽 第2番》の作曲を構想したいと強く思うようになった。
また、今回の機会のために多くの方のご協力を得た。企画者の岐阜県美術館やIAMASはもとより、奏者の方々には練習時間のない中で高い集中力を発揮していただいた。《エレクトロニック ラーガ》を使った作曲という構想について、好意的に受け止め背中を押してくださった石川喜一氏の存在も大きい。この場をかりて深く感謝したい。その他、当日に足を運び聴いてくださった多くの方から寄せられた言葉は、あの時間が何であったのかを客観的に理解するための大切なものとなった。深く感謝しつつ次作へ向けて進んでいければと思う。