INTERVIEW 031
GRADUATE
古舘健
アーティスト, エンジニア/2002年卒業
さまざまな経験を経て“初期衝動”に戻る
コンピュータープログラミングを用いたインスタレーション展示やライブパフォーマンスを行う一方、多くのアーティストのクリエーションにエンジニアとして参加するなど幅広い活動を行う古舘健さん。平林真実教授と、飛び入り参加したM1の新垣さんが、ダムタイプのメンバーとして参加したヴェネチア?ビエンナーレの作品、これまで、これからの活動について聞きました。
ダムタイプのメンバーとしてヴェネチア?ビエンナーレに参加
平林:まずは古舘さんの紹介を兼ねて、最近の活動から伺えればと思います。
2022年は「第59回ヴェネチア?ビエンナーレ国際美術展」(2022年4月23日?11月27日)など、ダムタイプの活動が中心だったかと思うのですが、ダムタイプでの活動は古舘さんにとってどのような位置付けなのでしょうか。
古舘:2022年は、ヴェネチア?ビエンナーレが確かに大きかったですが、それ以外にもThe SINE WAVE ORCHESTRAで行ったドイツでの展示、あと、年始には大阪を拠点に活動する日野浩志郎君の作曲作品「GEIST」への参加などがありました。
ひとまず、ダムタイプに関して説明するには、“初期衝動”の話まで遡らなければいけないですね。
高校生の時に、演劇をやっている兄からダムタイプのビデオ作品がCSで放映されると紹介されて、『OR』『pH』『S/N』を見ました。映像も音も使っていて、身体も光もあって、音楽でもない、演劇でもない 、“パフォーマンスとしか言いようのない何か”を見て、「これはすごいな」と衝撃を受けました。
それから池田亮司さんの音を意識するようになったのですが、ちょうどNTTインターコミュニケーション?センター(NTTICC)でオーストリアの電子音楽レーベルmego(メゴ)のショーケース(1999年)があって、池田さんがオープニングアクトをするというので観に行きました。そこで完全に吹っ飛ばされましたよね。ノイズと、海外の映像チームがVJみたいなことをやっているのを観て、「僕がやるべきことはこれだ!」と心を決めてしまったんです。池田さんの音もそうですが、いわゆる耳で聞く「音楽」というのとまた違って、もっと、物理的な空気の振動を鑑賞するという体験で、そんなことを体感したのは初めてでした。そのすぐ後に、やはりICC主催でICCの入っているビル、Opera Cityの大階段(ガレリア)でMERZBOWのコンサートがあり、そこでハーシュノイズと呼ばれる音を体験し、その思いを強くしました。数年後にThe SINE WAVE ORCHESTRAで同じ場所でイベントを開催できたのは感慨深かったです。
それを期にNTTICCへ通うようになり、そこでメディアアートのことを、そして「デジタル?バウハウス」展(1999年)でIAMASの存在を知りました。高校生だった僕はノイズとメディアアートの区別もつかないまま、IAMASにノイズをやるために入学したんですよ(笑)。
平林:そういう始まりだったんですね。
古舘:だから、初期衝動としてダムタイプというのがあったので、その一員になれたことは良かったですし、楽しいです。
平林:今回のヴェネチア?ビエンナーレの作品についても少し触れたいのですが、現在リンツ美術工芸大学に交換留学中のM1新垣さんが実際に作品を鑑賞していて、ぜひ古舘さんにお話を伺いたいとオンラインで参加しています。新垣さん、質問をお願いします。
新垣:作品を鑑賞して、日本パビリオンの外の空間から中の真っ暗な展示空間に入った時の感覚が印象的でした。光、音など、デバイスによって構築される空間はすごく無機質でありながら次第に温かみや緊張がほぐれる感覚に包まれていったのを覚えています。それを僕は、人間とメディアの対話であると鑑賞しました。
プログラミングを担当するエンジニアとして、古舘さんが空間づくりで意識されたことはあるのでしょうか。
古舘:あの作品にそのようにオーガニックなものを感じたのは、おそらく音の影響が強いのではないかと思います。坂本龍一さんの音源を濱哲史君(2007年IAMAS卒業)が空間上に配置しています。
僕が主に関わったのはレーザーとLED、回転するミラーの制御と、そのコンテンツです。あのような作品のデバイスや映像を作る時には、これは特にダムタイプや高谷史郎さんの手伝いをはじめてからすごく意識するようになったことですが、直感的に違和感を感じる部分を残さないことをいつも心がけています。単にムービーを再生するだけでも、いかにコマを落とさないか。レーザーの明るさの段階みたいなものを感じさせずに綺麗にフェードアウトさせるためにナノ秒単位で制御するなど、裏にあるコンピューターやシステムの存在みたいなものを意識させないように、そこを自然にあるべきように見えるよう意識して作っています。
平林:エンジニアとして参加する活動と、個人の作家活動、それ以外の活動はどのようにバランスをとっているのですか。
古舘:現状としては目の前にあるものをこなしていっている感じで、あまりコントロールできていないですね。今後はエンジニアリングワークやコラボレーションを減らして、もう少し自分の活動に力を入れていきたいと考えています。
平林:特に海外遠征があると、なかなか自分のことができなくなりますよね。
古舘:ある時点までは、エンジニアリングをすることが自分の糧になると考えていました。自分が持て余している技術を活かしてくれる場があるのであれば喜んで使ってもらいたいと思っていました。高谷さんや他のアーティストの手伝いをすることで、どういうことをポイントにして作品を作っているのか、どれだけ突き詰めていけば作品になるのかを勉強できるので、積極的に参加していたんです。
ただ最近になって、自分の活動に力を入れたくなってきました。そのためにも、エンジニアリングは減らして、もっと自分のやりたいことをする時間を作りたいと考えています。
平林:他のアーティストの手伝いをする中で、段々と自分のやりたいことが溜まっていったという感じですか。
古舘:他のアーティストのためのエンジニアリングと並行して、コラボレーションやコレクティブへの参加など、いろいろとやっていたのですが、そこで痛感したのは、技術だけではだめだな、と。「いろいろできますよ、何をしましょうか」じゃ駄目なんです。僕は、これをしたい、こういうことをする作家であるっていう軸がないと結局うまくいかない。単なる技術者だったら他にも人はいるわけだし、それこそどこかに発注すればいい話だったりもするわけじゃないですか。
そういう中で、自分がやりたいこと、っていう風に考えていくと、「一番やりたいことは音楽なんだ」とあらためて思って、そこに時間をかけたくなりました。三つ子の魂百までではないですが、最初にやりたかったことに戻ってきている感じですね。
平林:最初にやりたかったこととは、ノイズですか。
古舘:そうですね。ノイズを含めた音楽。映像を作っても、インスタレーションを作っても、電子基板を作ったりしても、結局は音楽みたいなところになってしまうんですよね。
新垣:今自分が海外にいることもあって、これから活動するにあたって海外とどう付き合うのかを考えるのですが、古舘さんは日本を拠点に活動する中でどのように海外に向けた活動をしていきたいと考えていますか。
古舘:海外で活動することに関してはすごく積極的です。僕らがやっているノイズやドローンの演奏などは海外の方が評価が高いですし、国内ではほとんど発表する場所がないので、海外に視野を広げていった方がいいからです。
ただやはりコネクションが重要になってくるので、僕の場合はダムタイプで海外に行った時などに自分のプレゼンをして繋がりを作るようにしています。
「雲の上の出来事」がIAMASには広がっていた
平林:IAMASに入学してどうでしたか。古舘さんが入学した2000年頃のDSPコース※はかなり濃いメンバーが揃っていたという印象があります。
古舘:そうですね。当時は専門学校でしたが、大学をでてから入ってくる人が多くて、高校を卒業してすぐの僕からすると少しレベルが違っていたように思えました。IAMASに入る前は、クラブでVJをすることは憧れで、遠い世界の話と思っていたのですが、それは日常と地続きだという発見がありました。ARchというプロジェクトに参加して、710.beppoという名義で長くVJをしていました。平林先生も参加されていて、IAMASでも会場のデコレーションなどで学生も参加しているmetamorphoseや、TAICO CLUB、Sonar Sound Tokyoなどの大きなフェスにも出演したり、2002年には自分達でフェス的なイベントを開催したり。
あと、海外ツアーなんて雲の上の話だと思っていたものが、メーリングリストで「やりたい」と言ったら、「うちでもできるよ」「ここでもできるよ」って返ってくるんですね。それで卒業してすぐ、2003年には海外ツアーが実現しました。雲の上と思っていた世界がIAMASに入ったら普通に広がっていたので、それはすごく良かったです。
平林:アーティスト的な活動が順調にいくようになったのは、サウンド?アート?プロジェクト「The SINE WAVE ORCHESTRA」の影響が大きいのではないかと個人的には見ているのですが、IAMASでの活動がどのように広がっていったのですか。
古舘:IAMASにいる間にやっていたことは、Maxばかりだったんですね。当時は、今のようなSNSはなくて、オンラインでの交流はメーリングリストや掲示板でした。IAMASでは、毎年、Maxユーザーが集まって情報交換をしあうMSPサマースクールというものがあり、そこで手伝いをしたりもしていました。そのMSPサマースクールに影響を受けて、同世代の人たちが九州芸術工科大学(現九州大学)で始めたfreqという同じような交流イベントがあり、2001年に参加しました。そこで知り合った仲間とは今でも交流があります。
「The SINE WAVE ORCHESTRA」に関しても、Maxユーザーでお互いに情報をシェアするところから始まって、僕がIAMASを卒業して東京に移ってからは一緒にイベントをするようになりました。そういう繋がりの中でたまたま「The SINE WAVE ORCHESTRA」のコアメンバー4人(古舘健、城一裕(2012?2016年までIAMAS教員として勤務)、石田大祐、野口瑞希)が毎週会う時期があって、その時にクラブから空いているから何かやってくれないかと声を掛けられて、それで思いついたのが「The SINE WAVE ORCHESTRA」だったんです。
平林:それはIAMASを卒業して何年後のことですか?
古舘:2002年に卒業して、その年末に開始してます。その頃、僕は会社員をしていました。
「The SINE WAVE ORCHESTRA」は2004年にPrix Ars ElectronicaでHonorary Mentionを受賞して、やはり雲の上と思っていたICCでもパフォーマンスをしました。さらに翌年、2005年には横浜トリエンナーレに出展し、海外ツアーもやったりして。個人の作家としても、710.beppoとしての展示や、四方幸子さんの企画「MobLab」に参加したり、波に乗れていたようにも思えます。
ですが、個人的にはそこで一度挫折しているんですよ。
平林:そうなんですか!?
古舘:そうなんですよ。東京での仕事がうまくいかなかったのもありますが、それ以上に作品を作るということに対する心構えが甘かった部分がありました。
平林:当時のDSPコースは作品を完成させるというよりは、好きなことをやって、それをまとめて卒業制作にすることの方が多かったですからね。
古舘:美術というよりは音楽という感覚が強かったので、正直に言うと当時は美術作品を作るということをよく分かっていなかったんですよ。「The SINE WAVE ORCHESTRA」にしても美術として評価されていますが、最初はクラブイベントの延長線でしたし。どういう作品を作るべきか、作品を作るということに対してもっと向き合いたいなと思ってしまって、一旦リセットしようと思って京都に引っ越したんです。
平林:なぜ京都だったのですか。
古舘:友達がいたからですね(笑)。IAMAS在学中から京都のCLUB METROによく行っていたので知り合いが多かったんです。東京じゃない別の場所に行こうと考えた時に、「じゃあ、京都に行こうかな」となりました。
平林:京都に移って、結果的によかったですね。
古舘:2006年に京都に来てからは、アーティストライブやミュージシャンとして、個人の活動はあまりしていなかったんです。とはいえ、現場に居続けること、みたいなことは強く意識していて、エンジニアとして高谷さんをはじめとした劇場作品への参加、他アーティストとのコラボレーションや、エンジニアとしての活動を数多く行っていました。あと、ダムタイプのチームの一員として活動できていることに楽しさを覚えていたし、その当時の僕は意味を見出していました。
平林:楽しさを優先していたんだね。
古舘:一つの転機になったのは、「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」という写真の美術展です。高谷さんが大きなLEDウォールをつかった作品を出展していたのですが、週末にそのセットを使ってライブをやることになり、その作品のクリエーションに参加していた僕と原摩利彦君、白木良君が出演しました。その時に昔使っていたライブセットを掘り出して演奏したら、評判が良かったんですよ。
それで気をよくして、ライブ活動を再開しました。また、2017年にはThe SINE WAVE ORCHESTRAでYCAMで「Vanishing Mesh」という展覧会に参加し、大きな作品を作りました。そういう流れの中で作ったものの一つが「AOMORIトリエンナーレ2017」で発表した『Pulses/Grains/Phase/Moiré』で、文化庁メディア芸術祭アート部門で大賞を受賞することに繋がりました。
平林:文化庁メディア芸術祭アート部門で大賞を受賞したことで、キャリア的にはどのような影響がありましたか。
古舘:直接的な影響はあまり感じませんが、受賞して良かったなと思うのは、受賞者だけが応募するできるメディア芸術クリエーター育成支援事業というのがあって、そこで採択されて京都?西陣織の老舗「細尾」とのコラボレーションプロジェクトを進められたことです。このプロジェクトは今の僕の活動の軸になっています。
平林:それはどのようなプロジェクトですか。
古舘:細尾とのコラボレーションは2015年から始めました。織物の組織を、コンピューター?プログラムのコードによって生成し、西陣織ならではの素材、技術によって普遍的な美を兼ね備えた全く新しい織物を作り上げるというものです。
2019年度のメディア芸術クリエーター育成支援事業の支援を得て、「QUASICRYSTAL」と名称をあらためて、ゲストとしてデザイナーの堂園翔矢さん(2014年IAMAS修了)、数学者の巴山竜来さん、アーティストの平川紀道さんに加わってもらうことができ、翌2020年に展覧会を行いました。
京セラ美術館のグループ展への出展と、来年4月からドイツのライプツィヒでの展覧会が決まっています。実際に見てもらうと分かるのですが、我ながら自信作です。
平林:観にいきます。
古舘:今はアートピースしか作れていないのですが、最終的には「細尾」がコレクションとして売れるような布を同じ技術で作れないかと考えています。
※ IAMASアカデミー DSPコース
1996年に専修学校として岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(通称:IAMASアカデミー)は設立され、2011年度にその幕を閉じた。DSPコースとは、IAMASアカデミーの専攻の一つで、音響や映像、インタラクティブ表現を応用してパフォーマンスやインスタレーションなどの技術習得を目的としたコースである。
取材: 古舘健さんのご自宅兼スタジオ
編集:山田智子 / 写真:森田明日香