質問者1 |
『逆シミュレーション音楽におけるエラーとは?』
|
|
三輪さんが《またりさま》のような演奏を完璧にこなして欲しいと言われていましたが、例えばコンピュータだったら完璧にそういうのをこなすことができます。人間がどんどん完璧になっていくと、それは最終的に演奏としてはコンピュータと変わらないんじゃないかと僕は思っていて。人間性というのは間違えたりエラーをするものじゃないかと思うんですね。三輪さんはそれでもやっぱり演奏に関しては習熟して完璧な間違いのないようなものが欲しいと思われているのでしょうか? |
三輪 |
まず答えを最初に言うと、そのように考えています。完璧じゃないとダメです。なので、僕は作品を作った立場から言って、間違えても良いというようなことは絶対に言いません。でも間違いができるのは人間だけだなあと、いつも心の中では思うんですけれども。それはだから基本的に難しいリストのピアノソナタを弾いて、それでも間違えてしまう。あんなに難しいのだから当たり前だけれど、間違えちゃいけないっていう前提は崩れないわけですよね。そういう意味で、その前提を僕は崩さないと思います。それで、まさにこうやったらやっぱり間違えやすいとか、こういうやり方でやるとこれ以上速くならないとか、そういうことに対して考えるとかチャレンジするとか、そしてもちろん修錬を積むとか、っていうプロセスみたいなものが、とても大切なものと思っています。
|
質問者2 |
『野外で演奏することの意義と、三輪眞弘のテクノロジーに対する考え方は?』
|
|
三輪さんの作品は野外でやることも多いですが、野外で演奏をやるということは、テクノロジーへの対峙という印象をもったんですけれども、どのようにお考えでしょうか? また、テクノロジーを人間が支配できないというお話の延長で、三輪さんは原発に対してはどのようにお考えですか? |
三輪 |
はい。野外というのはやっぱりすごく意識しています。まずアンチテーゼとして、西洋音楽のコンサートがコンサートホールという、例えば東京のような都会でも完全に静寂の中で楽器の音だけを聞く、耳を傾けろ、咳なんかするなよというような所で聞くものだという、まずその習慣みたいなものがあります。確かに僕だって西洋の音楽を聴く時は静かに集中して聴きたいというのもありますけれども、でも音楽はそれが全てではないと。また僕が試みようとしている音楽というのは、そういうものではないというところで、はっきりさせるために。まして野外のロケーションというものがいろんな意味やイマジネーションが起こるところであれば、好んで選びたいと思う場所ですし、あとそれをやっている時に、立ち会う人がいたらそれはそれで素晴らしいことだと。いなくても別に、いないからやる意味がないと僕は思わないという意味で、野外だとか普通のコンサートホールではないような場所で、いわゆる演奏が行われるというのは、僕としては抵抗もないし、むしろ積極的にチャレンジしたいことだと思っています。それから原発についてですが、人間に完璧はありえないわけですから、なにか間違いがあった時に、取り返しがつかないことになるようなものを人間が扱うというのは、そもそも非常に傲慢なことだろうと僕は思っています。そういう意味で、原発というものは手を出すべきものでは基本的にはない。でも手を出してしまった以上、どうなるんだということを、考えるしかないのだろうということ。それからもう一つは、原発によって浮かび上がってきた安定した電源供給みたいなものの世界の中で僕らが生きて、そのお陰でこのイベントのこのライトがあって成り立っている。芸術だけの問題ではありませんが、そういう現実を僕らはどう考えていくのかということについて、そこで僕がやっているパフォーマンスなり創作活動みたいなものが、単なる気晴らしではなくて、なにかそれに関係するところがあるのか、いやなかったら僕はやる意味はないと思っているんですけれども。どんなかたちであり得るのか、ということを考えていきたいと思っております。 |