三輪 |
急に生命なんていうふうに広げ過ぎかもしれませんけれども(笑)。そもそもテクノロジーを生み出したのが人間に違いないわけですが、僕は基本的にはテクノロジーの支配者は人間だとは思っていないので、テクノロジーの中で自分たちがいかに生きていくかっていうところを、考えなければいけないし、テクノロジーの自律性みたいなものを考えないとならない。少なくとも僕らはテクノロジーをコントロールしてるとか、できるものだなんて思うことだけは考えない方がいいと思っています。
|
水野 |
それは僕も思っていて、「共進化」という言葉をエンゲルバートが言っているのですが、それは人間とコンピュータとが一緒に進化していくという意味です。僕は人間がコンピュータとのインタラクションにおいて簡単な方に流れていった結果として、多くの人がコンピュータを使えるようになったことが重要だと思います。多くの人がコンピュータという論理機械と触れ合うようになることによって、人間がある程度簡単な操作で自分が生み出せなかったような複雑な情報コンピュータから視覚情報として返してもらう、という繰り返しの中で人間の知能が増強されていくわけです。コンピュータとの簡単なインタラクションのなかで、もしかしたら身体的な動きというのは最小のものになっていくかもしれないけれど、それは今まで人間が複雑な行為をし過ぎていたのかなという気がするんですね。演算の部分を行為の複雑さで補っていたのかもしれません。だから演算をコンピュータという外部に投げてしまえば、行為が単純になっていく。このプロセスのなかで、今までの人とは違った進化をコンピュータとともにしていくのかなと、思っているんです。三輪さんの場合、演算の部分を人間に取り入れることをしようとしているわけですよね。
|
三輪 |
ええと、ふたつ僕は理解していて、ひとつはテクノロジーみたいなものと一緒に進化していくみたいなイメージっていうのはあまり持っていなくて。ちょうど子どもにとって親は絶対に必要ですよね。だからと言って子どもは親のものじゃないわけですよ。子どももいつか親になるわけで。たぶんそういう関係にテクノロジーっていうのは似ていて、まだ僕らは少し親の役割をしないといけない。しかし親も子どもも一緒に進化していくというイメージを僕はあまり持っていません。つまりいつか子どもは親になって、親は老いていくっていうものなんだろうな、とイメージしています。それと、その演算みたいなものを人間の身体に投げるっていうのは、たぶんいろんな説明の仕方があると思うけれど、ひとつは論理的宇宙だけは人間は疑っていないという。つまり信じている、信仰しているということであり、つまり宗教と変わらないわけです。そういう意味で科学または論理学が一番ピュアなものとして、象徴的なものとして、その論理的な世界というものを目に見える世界に写す、それを見る、実現する、立ち会う、それ以上になにができるのだろうっていう、そういうスタンスです。
|
水野 |
最終的には論理の世界を可視化したものを見る、という。人間の中には入り込まない、っていうものなんですかね。さきほど演奏している方の顔をアップで見ていると、ちょっと困ったような顔をしていて、そのなかで演算をしているんだろうなあと思うんですけれども、そこで体現されたものを僕たちはただ見るしかないのかな、と。 |
三輪 |
僕は基本的にこういう演奏の場合は、見るとは言わずに「立ち会う」という言葉が一番良いんだろうなと思うんですね。彼女達がパフォームしている場に僕らは立ち会って、その時空を共有している。そういう空間、時間というものは、まずは音楽の成立する場所だろうし、それはiTunesで聴く、iPhoneで聴くものとは全く異質の別次元のもので、「この世」の出来事として体験するもの。それが音楽にとって一番尊いものに感じるわけです。
|