三輪 |
僕はそういう意味で《またりさま》でもそうですが、単純なルールがあってそのルール自体を理解すること自体はそんなに難しいことではないのですが、実際に間違えないでやるというのは難しいことです。でも間違えてもいいからみんなができるものを作りたいという発想は基本的にはないんですね。最初にお話したように、バイオリンのためにこんなに難しい楽譜を書いてもちゃんと弾いてもらえる。でも、ひとたびそうじゃなくなったらゼロに戻るしかない。そういう意味で《またりさま》では高速またりさまを見てみたいわけです。完璧な。実際にそういうチャレンジも実際にやってみましたし、そういう意味で誰もができるもの、というとことに全く価値は置いていなくて、新しい身体みたいなものを、つまり、僕に言わせればショパンのエチュードを演奏可能な身体は日本には、数は数えた事はないですけど、たくさんいるはずですよ。でも《またりさま》可能な身体をもった8人というのは、いないわけですね。でも例えば論理演算みたいな、演算をしながら反射的に体が動くようになるとか、イメージすることができるようになるというのは、例えばそろばんだってそうかもしれない。そろばんは達人になると頭の中で玉を動かしながらすごい計算ができるようになる。それは頭の中で身体化されている何かなんだろうと思うんです。そういうものを見てみたい。なぜなら、僕はそれを広く「技芸」と呼んでいますが、伝統文化というのは、西洋音楽に限らずそういう技芸に支えられてきたわけです。それは音楽だけでもない。しかし、いま言った「技芸」というものは全くいらないような時代が生まれているわけですね。それは誰にでも親しめるユーザーインターフェース、コンピューターインターフェース、間違いや失敗がない、というようなものはひとつの道として当然なんだけども、そうではなく楽器のように、つまり楽器というのは基本的に見ながら弾くようなものではないわけですね、初めから。見ながら弾いているのは初心者だけですよね。そういうような身体化みたいなものにやっぱり僕は大きな憧れをもっているということかもしれません。
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水野 |
高度に訓練をされた身体、ということですね。 |
三輪 |
だけどももちろん伝統的な芸術というものの権威とか、そういうものがない時にこれからそのようなものが成立するのかという思いがあります。よく冗談で言うのですけれど、小学生8人拉致して2ヶ月仕込んだら、とんでもない《またりさま》の演奏が見られるはずですよね。でも普通にそれをやってしまったら極めて非常識なことです。でも、もう一方では小学校とか幼稚園ではそういうことをやっていることも事実だと思います。小学校や幼稚園でやってることは公に認められた暴力、教育っていうのは暴力ですから。そして、なんかそうじゃないものは本当になくなっていくんだろうな、っていう感覚があります。
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